- パッケージ
- スーパーアンバサダー・ルアウ
- アリイ・ルアウ
- ゲートウェイ・ビュッフェ
- アイランドオブポリネシア&ナイトショー
- アイランドオブポリネシア
- すべてのパッケージ
ルアウパッケージ
その他パッケージ
-
その他の島の文化
- 概要
ポリネシア人はおよそ36のグループに分かれています。ポリネシアカルチャーセンターではハワイ、サモア、アオテアロア(ニュージーランド)、フィジー、タヒチ、トンガの島国を紹介しています。さらに現在は公開されていないマーケサスのトフア(儀式用建造物)やモアイ像を展示しているラパ・ヌイ(イースター島)の展示もあります。
- クックアイランド
クックアイランド
ポリネシアカルチャーセンターで未だ展示されていませんが、クックアイランドには多くのポリネシア人が住んでいます。ポリネシアカルチャーセンターに隣接するブリガム・ヤング大学ハワイ校にもクックアイランドから来たたくさんの学生が勉強し午後はセンターで働いています。2018年の人口は17,379人です。歴史と発見
クックアイランド・マオリ(クックアイランドに住むマオリ族)は祖先が1,000年以上前にタヒチやマーケサスから南の島々に移住し、サモアやトンガからの移住者が北の島々に定住したことに遡ります。また調べによるとニュージーランドのマオリ族の移住の一部はクックアイランドの島々から始まったとされています。スペイン人のメンダーニャは1595年に南アメリカからフィリピンへの同じ旅の途中でマーケサスとツバルを発見し、その途中でクックアイランド北部のプカプカを発見しました。1770年にイギリスの探検家ジェームズ・クック船長がクックアイランドの島々を発見したことにちなんで「クックアイランド」と名付けられ、1888年にはイギリスの保護領になりました。政府
1900年までにイギリスは島々の行政管理をニュージーランドに移管しました。1965年にクックアイランドの住民はニュージーランドとの自由連合による自治権を選択しました。そのため現在でも多くのラロトンガンやクックアイランドの人々がニュージーランドに住んでいます。人口の大多数は首都があるラロトンガを含む8つの高地の南の島々に住んでいます。地理
クックアイランドには低地で人口がまばらな北部の島々が7つあります。 - ニウエ
ニウエは世界最大のサンゴの島です。
位置
ニウエは南太平洋に位置しクックアイランドの最西端にあります。トンガから東に240マイルほど行ったところです。ニウエの面積は約100平方マイルでワシントンD.C.の約1.5倍の大きさです。人口
2020年のニウエの人口は1,626人でした(2020年 Worldometer)。歴史と発見
調査によるとサモア人が西暦900年頃にニウエに定住し、16世紀にはトンガからの戦士団が到来しました。1774年にジェームズ・クック船長がニウエを発見しましたが、ニウエの戦士によって3回上陸を阻止されました。クックはこの島を「サベージ島」と名付け地図に記録しました。政府
ニウエは地理的にはクックアイランドの一部ですが、行政上はニュージーランドと自由連合の関係にある独立自治領です。言語
ニウエ語と英語が話されています。 - ツバル
位置
ツバルは南太平洋に位置しハワイとオーストラリアのほぼ中間にあります。ツバルは9つのサンゴ環礁から成り立っており総面積は約10平方マイル(26平方キロメートル)未満で、ワシントンD.C.の約1/10の大きさです。人口
2020年時点で、ツバルの人口は11,759人でした(2020年 Worldometer)。歴史と発見
調査によるとサモア人が14世紀頃にツバルに到着しました。その後トンガ、クックアイランド、ロツマ、ギルバート諸島からの移民が続きました。ツバルの最小で最南端の島はヨーロッパ人がやってくるまでは無人島でした。その他の8つの島は18世紀までに定住されました。この発見から「ツバル」(八つの島の集まり)という名前が付けられました。スペインの探検家アルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラが16世紀後半に最初にこの島々を発見しました。政府
エリス諸島のポリネシア人は1974年にギルバート諸島のミクロネシア人との分離を求めて声を上げました。1年後エリス諸島はツバルとなり、独立したイギリスの植民地となりました。ツバルは民主主義を宣言しました言語
ツバル語と英語が話されています。 - ウォリス・フツナ
歴史と発見
科学的な調査によると伝統的にウベアと呼ばれるウォリス島とサモアとフィジーの間に位置するフツナ島は、約2,000年前に定住されたとされています。約500年前トンガの侵略者が島を占領し現地のポリネシア人と婚姻関係を結びました。1767年にイギリスの航海者サミュエル・ウォリスがウベア島を発見しましたが、1842年以降これらの島々はフランスの行政下に置かれています。人口
ウォリス島には約9,500人、フツナ島には約5,000人のポリネシア人が住んでいます。比較的大多数のウォリス人がニューカレドニアや以前はフランス領だったバヌアツにも住んでいます。言語
フランス語、ウォリス語(ウベア語)、フツナ語が話されています。 - トルアント諸島
位置
トルアント諸島はフランス領ポリネシアに位置しています。人口
人口は約15,000人です。歴史と発見
1521年にフェルディナンド・マゼランが太平洋を横断中にプカプカ環礁を発見しました。アマヌで発見された鉄砲は1526年にスペインのサン・レスメス号がそこで難破したことを示唆しています。1606年にはポルトガルの探検家ペドロ・フェルナンデス・デ・キロスがトゥアモトゥを訪れました。1844年に島々はフランスの保護下に入り、1880年にタヒチの属領として併合されました。政府
トルアント諸島はフランス領ポリネシアの自治海外領土内の「イル・デュ・ヴァン管区」(ilés du Vent circonscription)の一部です。1842年からフランスの統治下にあります。言語
フランス語(公用語)、タヒチ語(公用語)、トゥアモトゥ語が話されています。 - トケラウ
位置
トケラウは南太平洋に位置しハワイとニュージーランドのほぼ中間にあります。面積
3つの島の合計面積は3.9平方マイル(10.1平方キロメートル)です。人口
2000年7月の推定人口は1,458人です。発見
言語学的な分析によるとトケラウはサモアからの移住者によって定住されました。イギリスのジョン・バイロン提督が最初のヨーロッパ人訪問者で、トケラウの最小の島アタフにデューク・オブ・ヨーク島という名前を付けました。1791年HMSパンドラ号のエドワーズ船長がHMSバウンティの反乱者を捜索中に最大の島ヌクノノを発見し、デューク・オブ・クラレンス島と名付けました。政府
トケラウ諸島は1889年にイギリスの保護領となり、1925年にニュージーランドの統治下に移されました。言語
トケラウ語、英語、サモア語が話されています。 - ピトケアン
位置
ピトケアンは南太平洋に位置しペルーとニュージーランドのほぼ中間にあります。面積
総面積は47平方キロメートルで、ワシントンD.C.の約1/3の大きさです。主要な島であるピトケアン島は約2平方マイルの険しい半クレーターで、急峻な海岸の崖が海面から1,100フィートまでそびえ立っています。人口
人口は50人未満です。ピトケアン、ヘンダーソン、デューシー、オエノの4つ島のうち居住しているのはピトケアンだけです。ニュージーランドへの移住により、1937年の人口ピーク時の233人から減少しています。1831年には島民が一時的にタヒチに送られましたがすぐに戻りました。またノーフォーク島に送られた人たちもいて、一部の人は現在もそこに住んでいます。他の人たちはニュージーランドに移住しました。発見
イギリスの海軍士官フィリップ・カーターが1767年にピトケアン島を発見し、そして最初に島を見つけた船員の名前にちなんで島が名付けられました。1790年にフレッチャー・クリスチャンがイギリス船HMSバウンティの反乱者を率いて島に到着し、彼らとタヒチの仲間たちが定住しました。その子孫が今の島に残っています。1789年にフレッチャー・クリスチャンと他の8人のHMSバウンティの反乱者、6人のポリネシア人男性、12人の女性、タヒチからの赤ちゃんが最終的にピトケアン島に住み着いたことはよく知られています。1793年には、反乱の中でクリスチャンを含む5人の反乱者とすべてのポリネシア人男性が殺されました。ジョン・アダムスだけが1800年以降も生き延びました。外部との接触は1808年にアメリカの船が到着したことで再開されました。政府
ピトケアンはイギリスの海外領土です。また南太平洋で最初にイギリスの植民地となった島です。言語
英語(公用語)とピトケアン語(18世紀の英語とタヒチ語の混合)が話されています。
- 概要